2016年7月6日山口県周南市の櫛ヶ浜駅で高校2年生の男子生徒がいじめを苦に貨物列車に飛び込み自殺をしました。このいじめには教師も加担していたそうなので、小学校時代に先生からいじめられていた俺が、ちょっと思うところを語りたいと思います。
先生の言動は良くも悪くも刃物
小学校時代に担任の先生からいじめられて、その後高校で同学年及び先輩にいじめられたのですが、行為者によって明らかに質が違うと感じました。
【小学校時代】担任の先生からのいじめ→【いじめ】小学校時代に担任の先生から受けたいじめについて
【高校時代】顔も知らない同学年先輩からのいじめ→高校時代に受けたハイレベルないじめ「たわしが飛んでくる原因」
今思いつく解決策だけでなく、これから何か救いにつながる解決策を思いつくかもしれない可能性までもがすべて「もうダメだわ」ってさじを投げる感じ。
それが先生からのいじめ。
人は、全身全霊が白旗上げているような、環境からの袋叩きの運命を諦めきって受け入れたような状態になると、その状況を鮮やかに救ってくれる救世主のような人が現れることが最後の希望になってくるのだけれど、先生からのいじめは現状持っているその希望とこれからまた希望を持つかもしれない可能性を完膚なきまでに殺してしまう点で、破壊力の質が違う。
それはもう木刀と真剣くらいの違い。どちらも人を殺すけれど、傷の質も殺傷能力も違う。
教育委員会への告発→報復の恐怖
教育委員会に告発すれば?
……と思う人もいると思うけど、教育委員会に告発したって即日で飛んできて先生を連行してくれるわけではないでしょう?
ぶっちゃけあの人たちどっちの味方なのかわからないし、たぶん保身ありきの【事実確認】で何ヶ月もかけて、その間当事者は
「教育委員会に告発したことが先生にバレたらどんな報復を受けるだろうか……」
と怯えながら、加害者と同じ環境、それも加害者が圧倒的に優位な環境で過ごさなきゃいけない(ストーカー被害に似ているような気がする)。
「教師が聖職者で善人でバランスの取れた人間(だからさすがにそんなことはしないだろう)」という幻想はとっくに現実で崩壊しているので、相手は単純に圧倒的に優位な立場(支配力)を持った、恐ろしい敵にしか見えない。
今ですら精一杯で壊れてしまいそうなのに、このうえそんな得体の知れない恐怖を受け入れたらいよいよ自分がもたない。「現状維持」以外を選択するような勇気はとても捻り出せない。
「ならこのまま我慢しよう……」
っていう結論になる。
でも、その段階まで来ている当事者はもう冷静な判断力を欠いている。
HPの残がとっくに一桁なのに「ぼうぎょ」を選択するようなもの。そんなの何ターンももたない。
そうなると、最後に残る希望は「生きるのをやめること」しかなくなってしまう。
「死んだら解決するかも」という仮定
実はいじめのかなり初期、まだ心の余裕がある頃から当事者は
「死んだら楽になるのかな?」
と仮定してみていることが多い。
普通の人は日常生活で「死んだら」なんて仮定はしない。
でも、いじめる側があまりにしつこく、あの手この手で人間性を否定してくるから、自分の中でもちょっと自分の命の価値が下がってきてそういう仮定を意識しちゃうようになる。
こうなると「いじめで自殺」みたいなニュース(事例)が、自分の未来を暗示しているようで、妙な引力を持っているように感じて恐ろしくなってくる。
最初は冗談交じりで「なんてね」「まさかね」と思っていたけれど、希望がすべて消滅したように感じる世界で、最後の最後に残っているのはそいつだけ。
そうなると(受け入れてみると)、自己責任で状況を解決できる唯一の手段にさえ見えてしまう。
俺は、同学年や先輩複数人からいじめを受けている時、その中心人物に「なんでいじめるの?」って聞きに行く、という危険極まりない方法で運良く解決できたけれど、もしあの賭けが失敗していたら今この世にいなかったかもしれない。だってもうカードは残っていなかったから。
親にだけは知られたくない
……で、俺が小学校や高校でいじめられていたことを親は一切知らなかったし、今も知らない。
知られてなるものか。
言葉ではどんなに否定していても大好きな親、そして無条件に愛してくれているのがわかる親に
「あなたの子どもがこれでもかと否定されて、おもちゃにされて、最近では死なんかも意識しはじめています」
なんて知らせたら、その事実がどれだけ親を傷つけることか。
それが親本人を否定されること以上に深く強く親を傷つけ、動揺させ、激しい怒りという不健康な感情を抱かせてしまうか、ありありと想像できた。
助けを求める、被害を訴える、というのはそれを現実化することを意味していた。
この上できるかよそんなこと!
この時点で、それを乗り越える勇気と命を終わらせる勇気はほぼ同量といっていい。
自分だけの問題にしておけば傷つくのは自分だけで済む、という土台があるから、後者の勇気のほうが気持ちちょっとマシに(軽く)感じるほど、それは勇気のいること。
親だけに限らず、大切に思う人(悲しませたくない人)が多ければ多いほど、気丈な態度を直前まで貫いてしまう。
なので、だいたいがインタビューで「なんであの子が!?」とか「朝まではいつもどおりだった」みたいな感じになる。
「イジられて喜ぶ人もいるので」という弁明の闇
いじめってそういうこと。
今回の周南市の事件では、先生が次のように釈明しています。
いや、イジられて喜ぶ人もいるので……
は?
出たよ「イジり」!!
テレビが作った「それぜったい末代まで弊害もたらすやろ」系文化の代表、イジりですよ。
これによっていじめている側が
いじめじゃないですイジりです
って対抗できるようになったんですよね。
誰かが犠牲になっても見ている大勢が笑ってくれるのなら、それはイジりであって悪いことではない。だからイジられる側も我慢しなければならない。イジられることをいじめのように言うのは野暮であってイケてないことである
みたいな雰囲気が確立されましたもんね。もう。
上でも言いましたけど、先生の言動は良い意味でも悪い意味でも威力抜群なの。だから刃物なの。
「いや、喜ぶと思って刃物でツンツンしてたら死んじゃいました」
たしかに世の中には刃物でツンツンされて喜ぶ人もいるでしょう。でもそういう人だって、刃物の使い方も知らんような素人にツンツンされたら怖いだけですって。
イジりにしたって、イジる側とイジられる側の信頼関係が構築されていることが大前提で、イジる側もラインがわかっていて(パス)、且つイジられる側も上手に受け身が取れて(シュート)、それを双方にとって「オイシイ」(ゴール)に昇華できる人たちがやるから笑いが生まれるのであって、自分がオイシくなるためだけに一方的にイジりかましたら、それはただのいじめだし、見ている方も良い印象は持ちませんて。
イジりが流行するなら、それなりのルール(技法)もセットで出回らないとこういうことになります。
「空気を読む」
じゃ説明が足りなすぎることは、こういう事件が証明しています。
以上です。
ありがとうございました。
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